南山城村の高麗寺のなぞ
木津川市の高麗(こま)寺
今回からダーっとバイクで走り去るスタイルから、一つの場所を書くようにしたいと思います。
南山城村の高麗寺という寺があり、近くの木津川市山城町には高麗寺という地名と「高麗寺跡」という旧跡があります。
一見すると関係がありそうなこの2つは、実は何の関係もないのです。
まず木津川市山城町の高麗(こま)寺跡は7世紀初頭(飛鳥時代)に創建され12世紀まで存在した由緒ある寺でした。
少しおかしいのは「高麗」という国が建国されたのは10世紀で、高麗寺より3世紀も後である点です。
創建時は「高句麗寺」や百済寺、あるいは新羅寺のような名前だったのかも知れません。
高句麗からの渡来人だった狛(こま)氏の氏寺で、法隆寺や飛鳥寺との関連性も見られるが、寺は現存していない。
渡来人の全盛期は仁徳天皇から天智天皇までで、百済が滅亡して白村江の戦いで負けてからは、勢力としては次第に衰えていきます。
百済寺や新羅寺などかなりの渡来人建築が存在したが、渡来の減少に伴って衰退し消滅した。
このようなハングルの看板が国道からずっと続いています。
因みに高麗にハングルは存在していませんでした
センスが無いのか荘厳さが感じられない
後ろに在るのが社務所兼マンション
一度ばらして置きなおしたくなる
4階建てだがバイクが1台止まっているだけでした
左の丘の上が社殿、右が水子地蔵、奥が墓地になっています
山奥のつきあたりに寺がある
南山城村の高麗寺
このような由緒正しい高麗寺にちなんだのか、韓国の仏教団体が20キロほど離れた山奥に「高麗寺」という同じ名前の寺を建てた。
エッフェル塔の近くに「偽エッフェル塔」を建てるような考えられないセンスですが、不自然とは思わないようです。
実際に現地へ行ってみるとこの高麗寺は敷地が広大で建物や施設にはかなりの金が掛かっているのが分かります。
数百億とはいかないまでも、1億程度では全然足りないような本格的な作りです。
高麗寺の職員や信者が泊まるマンションまであり、近くにはサティアンを連想させる工場もありました。
寺の本堂は道の左手に石垣を積み上げた上に在り、右手には水子地蔵がたくさん祭られています。
奥に進むと広大な墓地があり、1割ほどは実際に墓石が並べられていました。
いくつか墓の名前を確認すると、済州島など半島出身の在日や帰化人の人たちが、ここに埋葬されたようでした。
人里離れた山奥の突き当りにあり、周辺住民とは関わりがない寺なので、荒れ放題ではないものの寂れている。
滞在した20分くらいの間誰も見かけず、花が無いので最近墓参りした人もしないようでした。
その地域に無関係な巨大施設をドンと建てても、ガリバー王国のようになってしまいます。
石段の上に建物があります
雑草からあまり手入れされていないのが分かります
左手に鐘つき堂があるんですが
とても巨大です、金田一シリーズの獄門島を思い出しました
下に降りた右手には水子地蔵が並んでいて、不気味です
奥にある墓地はスカスカです
墓石には半島名の名前が刻まれています
この人は済州島出身だったようです
高麗寺を出た場所、おそらく寺の敷地内ですが「ニッポンコリア友好平和協議会」と書かれた修理工場のような建物があった
放置された事故車に友好的ではない「何か」を感じて立ち去った
おわり