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渡来人と部落と天皇陵 知らない方が良い歴史

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どうして天皇陵は部落にあるのか

2017年から18年にかけて奈良京都大阪のほとんどの天皇陵、90か所以上を回ってきました。

そして気付いたのが、ほとんどの天皇陵が部落の中に存在したという事です。

これには注釈が必要で、京都時代のほとんどの天皇陵は寺の中にあるので部落内ではありません。


また最初期の被葬者が不明な天皇陵は農村の中や山中にあり、必ずという訳ではありません。

だが仁徳天皇から寺の中に陵墓が作られてるようになるまでの間、古墳時代の天皇陵のほとんどが部落内なのです。

特に100%一致するのが大阪府内の天皇陵で、次いで奈良県のも関連性が高い。


京都はその後首都として開発されたので良く分からないが、京都自体に部落が多いのは部落問題で検索するとすぐ分かる。

こんな事は古墳の研究者はみんな知っていたと思いますが、発表するのはタブーなのでしょう。

どうして天皇陵と部落がこれほど一致するかの解釈は、偶然ではなくその時々の政府が意図的にそうしたと考えられます。

 

大阪の天皇陵周辺は例外なく”ごちゃごちゃ”している

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天皇陵の工事をしたのは渡来人だった

最近世界遺産に登録された仁徳天皇陵は西暦420年前後で、大きさは840メートルで世界最大、周囲の濠を掘って中央部に盛り付けたと推測されます。

これほどの大工事をするにはよほどの労働力が必要だが、関連しているのは大阪湾埋め立てと渡来人でした。

仁徳天皇は半島からの渡来人受け入れに非常に積極的で、現在の大阪市に半島系が多いのは、仁徳天皇から始まったようです。


当時大阪湾は海だったのが淀川と大和川の土砂で埋まりつつあり、大規模な埋め立て工事もしていました。

そこに動員されたのが渡来人労働者で、今の浪速区は新羅洲、今の中央区に百済洲という居住島がありました。

今の生野区には百済の王族が住み、百済寺や百済川があり、イノシシをたくさん飼って肉を食べていたため、猪飼野という地名になった。


渡来人労働者は水田開拓にも動員され、大阪、奈良、京都で水田を開墾しそのまま住み着いた。

天皇陵の造成にも渡来人労働者が動員され、そのまま住み着いたか、元々そこは渡来人居住地だった。

天皇陵と部落が高い確率で一致するのは、渡来人に天皇陵の工事をさせ、その後も渡来人集落だったからと考えられます。

 

今の鶴橋には1600年前から渡来人商人や貴族階級が住み、労働者は埋立地で労働をしていました

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神功皇后が戦利品として連れてきた

古墳時代にこれほど渡来人が多かったのが謎ですが、答えは古墳時代最大のタブーとなっている神功皇后にあります。

神功皇后は三韓征伐によって半島を支配下に置き、多くの渡来人を連れてきたとされています。

戦後は韓国からの抗議で神功皇后はいなかった事になったのだが、もし神功皇后が居なかったのなら、大量の渡来人がどうして大阪で埋め立て工事をしていたのか説明が付きません。


神功皇后の三韓征伐から天智天皇が白村江の戦いで負けるまでの約250年間、半島を支配し労働者を連れてきて使役したというのが答えのように思えます。

神功皇后は西暦400年頃で、半島は4つ以上の国に分かれていて、その中に日本領の任那日本府も存在したとされています。

天智天皇の白村江敗戦によって日本軍は半島から撤退し、新羅によってはじめて半島に統一国家が成立しました。


この後秀吉の朝鮮征伐まで大規模な渡来はなく、秀吉・家康時代の渡来人はやっぱり半島から連れてきた労働者でした。

秀吉時代の渡来人や明治昭和期の渡来人も旧来の渡来集落に集まり、今も大阪の至るところに大規模な渡来人地域が存在しています。