千日前以外の大阪処刑場、大阪ドームの南側に存在した
大阪ドームは左上の赤色辺り、左下が難波島で、その右が月正島
http://blog-imgs-41.fc2.com/a/t/a/atamatote/nanmashima_03.jpgより引用
大阪ドーム周辺が奉行所と処刑場だった
江戸時代に大阪最大の刑場だった千日前刑場については、かなり前に行って書きました。
それから時が流れて大阪には千日前以外にも複数の刑場が存在していたのを知りました。
ひとつは「難波島」という島に在り、現在の大阪ドームから徒歩15分くらい南側にあります。
大阪ドームの東側は木津川という川になっているが、川の十字路のようになっていて、江戸時代はもっと入り組んでいました。
江戸時代にはドームから500mほど南には木津川の両側に、西に難波島、東に月正島という中洲がありました。
木津川の西側は今の大正区ですが、当時は陸地とつながっていない状態で、船でしか行けませんでした。
大阪に入る船がここに集まったので大阪ドーム北の「川口」に船奉行が置かれ、ドーム南の難波島に仕置き場(刑場)が置かれました。
仕置き場は最初東側の中洲である月正島にあったのだが、本土側が賑やかになってふさわしくなくなったので、隣に移動したとされている。
月正島の西側にはほぼ同じ大きさで同じような三日月形の難波島があり、橋はないので船でしか行けなかった。
千日前刑場
月正島の北側にあたる芦原公園
捨て場だったと思われる場所は遊歩道になっていた
左手は大阪府警別館庁舎、右手は職業技術専門校になっている
刑場だったあたりは支援学校になっている
支援学校の南にある木津川公園が月正島の南端だった
月正島仕置き場は江戸後期には閉鎖され、その後材木置き場として使用された
木津川の両側に刑場があり、百済橋跡は明治初期まで使われていた
ゴミとして捨てられた人々
正式名称を三軒家仕置き場と言い、通常の処刑と違い「取り捨て」しか許されなかった。
江戸時代の法律では死刑にも軽重があり、軽い刑ではなるべく苦痛なく執行し、死後は埋葬や墓を建てるのが許される。
「取り捨て」は埋葬すら許されないもっとも重い刑で、「ゴミ」として投げ捨てるという重刑だった。
千日前刑場では埋葬されたり墓が作られたが、ここで処刑された人はゴミになったのです。
それだけではなく腑分けといって解剖されたり、漢方薬の原料として売られたり、一切人間扱いされませんでした。
現在も月正島と難波島があった場所には、慰霊碑の類はなにもありません。
罪人は生きたまま船で月正島や難波島へ運ばれ、島内で刑を執行されてそれぞれの北端にあった「捨て場」に捨てられました。
場所は月正島の捨て場があった北端は「木津川リサイクルセンター」から「芦原公園」あたりだったと推測されます。
難波島の捨て場があったのは大正区の百済橋跡で、明治時代に橋を作ったときに、大量の骨が出てきて判明したそうです。
ここも古紙のリサイクルセンターが近くに在ったりして、今もあまり良い環境ではありません。
大浪橋から見て左手に月正島、右手に難波島があった
難波島の北端だった場所
百済橋という橋を掛けた際、大量の骨が見つかっている
三軒家仕置き場(刑場)があったことは書かれていない
難波島渡船場跡、ここに上陸した後で刑が執行された
最も近い三軒家八坂神社にも慰霊碑や記録はなく、徹底して無視し消し去る意図が感じられる
明治の木津川のようす。開発にともなって刑場だった事は隠されるようになった
https://www.city.osaka.lg.jp/taisho/cmsfiles/contents/0000011/11323/shiseki09.jpgより引用
おわり