十津川村の上流域は自然の宝庫
十津川村南部の上流域へ進出
十津川村には何度か行きましたが、村役場や道の駅がある辺りまでが多かった。
地図を見ると道の駅 十津川郷は十津川村の中心部で、もう半分ほどの面積が広がっている。
十津川村は全国でもっとも広い村で東西南北にそれぞれ30キロ以上、奈良県の18%(6分の1以上)を占めている。
東西南北それぞれ33キロのほとんどは山岳地帯で、真っすぐな道はなく、つづら折れのように曲がりくねっている。
道が舗装されていればましな方で、未舗装であったり崖崩れでなくなっている場合がある。
都会では自然災害はすぐ復旧するが、大半は超限界集落なので崩れた道は数年間そのままだったりする。
大阪市からだと余裕をもって日帰りできるのが道の駅までなので、そこまでツーリングして引き返す人が多い。
休憩をはさんで片道3時間30分で往復7時間なので、朝7時に出て3時頃には帰り、それから一応仕事らしきこともできる。
その先まで進むと帰りはおそらく夕方で、高速道路は無いので走行距離は下道300キロくらいになる。
五條市の丹生川から十津川村を目指す
いつもの猿谷貯水池を通る。この日は水量が多くきれいな青だった
北欧の景色みたいです
ジグザグ坂の上に旧小学校があるが、今はスクールバスで通っている
十津川村の風屋郵便局から風屋ダムを見たところ
風屋郵便局周辺は大きな集落になっている
風屋ダムに近い二村小学校跡、十津川村では20校近く廃校になっているという
十津川村の苦難
十津川村は中央部の南北に十津川がある他、今西川、神納川などが縦横に流れていて険しい山か川のどちらかです。
大昔から修験者の修業の地となっていて、吉野から熊野参詣道に至る世界遺産になっています。
今は道路がある訳ですが昔は山を越え谷を超え、原生林をかき分けて徒歩で行ったとは信じられません。
十津川村は1889年(明治22年)に大水害に襲われ、住民の1割以上がなくなり4分の1が家屋喪失、計活手段をなくした者も多数に及んだ。
そこで2か月後の10月に被災者2691人が北海道に移住して建設したのが、北海道の新十津川町です。
移住した北海道はただの原野ですぐに想像を絶する寒さとなり、移住先でも困難を極めたと伝わっている。
十津川村は修験者や都から逃れた者の逃亡先だった事もあり、明治まで熱心な尊王の地として知られていた。
幕末には十津川郷士960人が天誅組の尊王攘夷に加わったが、幕府に討伐されて捕縛されるか討ち取られるかしている。
第二次大戦時には満州開拓団として数千人が満州に渡ったが、半数近くがソ連兵や中国人に襲われて現地でなくなっている。
この満州開拓団は「XXX地区から何人」のようにノルマがあり、長男は村に残るので行くのは次男以下と決まっていて、事実上強制だった。
終戦時に日本軍は開拓団を置き去りに鉄道で逃げ、しかも避難を禁止しその場に留まるよう指示し被害を拡大させた。
十津川村にはこうした苦難の歴史があり、現在は過疎化が進んで静かな時間が流れている。
十津川にかかる水力発電水道橋が見えています
川にかかる橋を渡りたかったが、工事車両専用でした
水道橋の道路反対側は小さな集落になっている
数軒の民家と工場か倉庫で村を形成している
小さな花畑がありました
少し先に進んで水道橋と集落を振り返る
橋のたもとにあった交通安全地蔵
もう少し進むと役場や道の駅がある
つづく