十津川村国王神社 天誅組と長慶天皇
天誅組と長慶天皇
十津川の日本一長い谷瀬の吊り橋から国道168号線を1キロほど南下すると、国王神社という標識があります。
他に何かがありそうでもないので素通りしていたが、この日は時間があったので寄り道をしてみました。
車数台が止まる駐車場にの先には階段があり、十津川がある高さまで降りていくと、階段の途中に南帝陵がある。
陵墓といっても村の小さな祠ほどの大きさで、長慶天皇はここで討ち取られたとある。
天皇が討ち取られたとすれば大変な事だが、長慶天皇は弟に天皇を譲位した後の消息が不明となっている、。
在位は1368年から1383年で、時は南北朝対立の末期で長慶天皇は南朝の強硬な対立派だった。
このため和睦派の側近に裏切られたり疎まれたたため、弟の後亀山天皇に譲位したが、南北朝合一後どうしたのか記録にない。
一つの伝説として南北朝合一後に北朝の追っ手に追われ、十津川に逃げたがここで追い詰められ自害したという。
南朝の有力武士は楠木正儀で有名な楠木正成の息子で戦上手だったが、正儀は和睦派だったため長慶天皇と不仲だった。
後亀山天皇は和睦派で楠木正儀と親しく、孤立した長慶天皇は追われるようにして譲位を迫られた。
結局長慶天皇がその後どうしたのか分からないのだが、そのこと自体が不幸な結末を予感させる。
十津川を遡ると
国王神社があります
転がりそうな坂を下りていきます
長慶天皇が討ち取られたらしい場所
急な斜面にあります
階段が下まで続いています
降りていくと国王神社
さらに降りると十津川が見えます
天誅組の仲間割れ
長慶天皇の自害からおよそ500年後の1863年8月、尊王攘夷を唱えて討幕のために天誅組が決起した。
夷狄(いてき)嫌いで有名な孝明天皇が8月13日、神武天皇陵参拝し攘夷親征の詔勅を発し、幕末の尊王攘夷運動が始まった。
最初に立ち上がったのは土佐脱藩浪士を中心とした38人で、五條代官所(現在の五條市)を襲い天誅組が挙兵した。
ところが肝心の孝明天皇は長州藩らの失脚を見て怖気づいてしまい、反対に朝敵として追われる羽目になった。
劣勢を挽回するため天誅組は、尊王の気風で知られる十津川村で兵士を募り、1000人規模にまで膨れ上がった。
この十津川郷士の一人が玉堀為之進で、天誅組の計画性の無さや勝ち目が無いことを悟り、慎重論を唱えたところ中山忠光に討ち取られた。
実際に討ち取られたのは20キロほど北の大塔町阪本本陣跡だが、出身地に近い国王神社に祭られたのでしょう。
玉堀為之進は五十三歳、中山忠光は18歳だが。江戸時代は年齢より親の身分によって上下が決まっていた。
玉堀為之進は一介の郷士(半農の最下級武士)中山忠光は権大納言・中山忠能の息子で母は平戸藩主の娘というエリートだった。
江戸時代の人々はこうした身分の高い人に従っていたので、意見をした玉堀為之進は無礼討ちのように切られた。
玉堀為之進の辞世の句として「国の為仇なす心なきものを 仇となりしは恨みなりける」が残されている
その後案の定天誅組は負け続け、わずか1か月で解散して全員が捉えられるか討ち取られた。
だが主将の中山忠光は部下を見捨てて長州に逃げ延び、20歳でなくなった。
明治維新は美談として語られるが、現実はこうした気持ち悪い人間が多い。
さっきの階段脇に玉堀為之進の歌碑と説明がある
平たく言うと53歳の派遣が18歳の社長の息子に注意したら、無礼討ちにされてしまった
これがその社長のバカ息子
神社隣は採石場になっています
降りた階段よりもう少しましな道があった
採石場と十津川を見ながら上がる
苔だらけで滑りやすい