川上村の武木集落と天誅組最後の食事
天誅組最後の日に食事をした地
前回は奈良県川上村の吉野川沿い国道169号線から武木集落に入り、武木小学校跡まで来ました。
武木には歴史など何もないかに思えたが、天誅組滅亡の最後の日にここで昼食を食べていました。
奈良県の南部では至るところで天誅組史跡に出くわし、このブログでも何度も登場してきました。
ざっと説明すると1863年8月13日、異人嫌いの孝明天皇が攘夷親征の詔勅を発し、土佐脱藩浪士ら38名が挙兵した。
8月17日に奈良県五條市の五条代官所を襲撃したが、翌18日に京都で幕府側が御所を奪還し孝明天皇は大和行幸を中止した。
天皇の寝返りで天誅組は一夜にして皇軍から賊軍になり、奈良県十津川村で兵士を募って戦いを挑むが惨敗する。
主将の中山忠光が十津川郷士を野ネズミ並みに扱ったりしたため9月15日に十津川勢が離反した。
9月19日に天誅組は解散し長州に逃げ込もうとし、9月24日に武木村で会食をし足の郷道を越えて鷲家口(現・東吉野村小川)へ向かった。
鷲家口まで逃げた天誅組残党だったが薪小屋に隠れている所を褒美目当ての村人に密告され、9月27日までにほとんどが討ち取られた
主将の中山忠光だけが長州まで逃げ延びたが、長州藩と幕府が接近すると翌1864年12月13日に刺客に倒れている。
中山忠光はドラマや小説では維新の英雄として描かれているが、人間的にはまったく尊敬できないような性格だったらしい。
十津川郷士を人間扱いせず慎重論を唱える者を叩き切ったり、部下を見捨てて自分一人だけ長州に逃げたなどです。
中山忠光は天誅組でもっとも身分が高く、父は権大納言で母は平戸藩主の娘という超エリートだったため主将になった。
武木小学校跡は集落で唯一の舗装の広い空間
小学校前の道、ここを生徒が通ったのでしょう
道は上の方に続いている
寄り添うように民家が集まっている
細い路地が家々を結んでいる
石垣の家が多い
これも石垣の家
古い木造住宅の宝庫みたいな感じ
謎の四郷集落
武木集落の先に林道は続き、天誅組が超えた足の郷道を抜けると鷲家口(東吉野村摂社丹生神社あたり)に出ます。
なのだが足の郷道の舗装林道は杉の枝や尖った石が落ちていて、バイクのタイヤがパンクしそうなので峠を越えたあたりで引き返した。
国道をぐるっと回って鷲家口に出るという姑息な手段を用いたが、幕末はもちろん舗装されていなかったので半日程度で歩くのはかなりの苦労だったでしょう。
天誅組残党も歩いたに違いない四郷川沿いには、四郷というかなり大きな集落が存在する。
林道がある以外は行き止まりの地形なので、過疎地のマイ法則からは「行き止まりの集落は無人化する」筈です。
四郷には数十軒の数えきれないほどの民家があり、今もその半分程度には人が住んでいるようでした。
過疎地には珍しい商店があり食品や雑貨が並んでいて、郵便局なども存在している。
どうして四郷集落だけが限界化せず残っているのかは、次の機会に確かめてみたい。
足の郷道を引き返し、国道を回って鷲家口方面に来ました
ここは吉野川の名もない支流沿いで東川という地区
川に出っ張っていて面白い建物があります
食堂だったが営業してるのか不明
犬にもの凄く睨まれながら撮っている
花壇と洗濯物がある家は人が住んでいます
低い屋根が密集する一角
上中井という地区のようです
つづく