かつらぎ町の串柿の里、四郷に行くが敗北
串柿の里を訪ねるが
10月初めに串柿の里として有名な和歌山県かつらぎ町の四郷に行ってきました。
道の駅やスーパーでは柿が売られ始めたので、そろそろ見れるのかなと思ったのだがありませんでした。
四郷の串柿は正月の縁起物として大量に作られ、外にズラーっと吊るしてある風景が名物になっています。
帰ってから気づいたのはこの干し柿を製作するのは10月後半から11月いっぱいなので1か月も早かった。
串柿というのは食用ではなく、食べれなくもないのだが関東でいう松飾のみかんのような存在です。
目的は飾る事なので11月に作っておいて正月までに販売し、食用としては販売されない。
奈良・和歌山には柿の木が非常に多く、ちょっとした空間があると「隙あらば柿の木」という具合に植えてあります。
柿は日本の固有植物で縄文時代から食べられ、弥生時代や古墳時代の遺跡からも柿の種(お菓子ではない)が発見されている。
飛鳥時代に柿本人麻呂という歌人が居ましたが、すでに柿はありふれた食べ物だったので柿にちなんだ家名だったようです。
四郷に上がる道にある土壁の空き家
ここにも人が住んでいたのでしょう
これは柿じゃなく柑橘系の実を栽培してるようです
葛城蔵王権現社です
もともとは修行の場だったようです
けっこうオシャレな感じがする
さっきの鳥居を上から見たところ
山岳の限界集落で干し柿栽培
柿は低カロリーで栄養としては物足りないが、植えておけば秋には収穫でき、甘みがあるので果物のように食べられた。
干し柿は弥生時代には存在し、秋に採れるので冬の保存食として重宝されました。
全国的に干し柿栽培が盛んになったのは戦国時代で、戦場の携行食料として栽培が奨励されました。
江戸時代になると消費経済が盛んになり、商品として干し柿を大量生産するため柿畑が作られました。
奈良県は山岳地が多く山岳地はだいたい貧困だったので、特産品として大都市まで運べる干し柿が奨励された。
冷蔵庫やトラックが無いので、ただ柿を生産しても大阪や京都まで運べず商品として売れないからです。
かつらぎ町四郷とは「広口・滝・東谷・平」の4集落で、山上の傾斜地のとんでも無い場所にあります。
昔は背後の山林で林業を営む集落だったと思いますが、林業衰退で干し柿農家しか残っていません。
干し柿で1年暮らせるほどの収入は無いので、実際には平野部に通勤するか平野部に住んで用がある時だけ上がってくるようです。
地形は険しいが四郷から駅やスーパーがある地域まで車で15分くらいなので、思ったほど不便ではない。
干し柿の作業期間では無かったせいが集落には人の気配がなく、空き家がかなりを占めているように見えた。
斜面に柿が実っていて期待が膨らむが
堀越癪観音近くの古民家
左の手すりみたいなものが串柿を吊るす場所だが1本もない
こっち側が東谷、右の山が平、左の斜面が広口、左側あたりが滝集落になります
早かったのかという絶望感が漂い始める
柿は成ってるのに収穫してない
柿を吊るす棚をまだ作ってない感じですね
つづく