川上村の下多古集落 かつて林業最盛期に栄えた村
日本最古の人工林
奈良県の吉野川上流には多古(たこ)という珍しい地名があって、やや上流の上多古川沿いに上多古集落がある。
1キロほど下流には下多古川が流れて下多古集落があり、現在の戸数はどちらも20戸以下というところで、多くは空き家になっています。
この付近は江戸時代の初期から杉が植林され、日本最古の人工林として知られています。
今も巨木や杉の木は多いが、1本数千円にしかならず切っても赤字なので、伸びるに任せています。
飛鳥時代に100万人だった日本列島の人口は江戸末期に4000万人に増え、住居や燃料や資材のほとんどを木材から調達していました。
この結果江戸末期に日本の天然林はほとんど伐採しつくして禿山だらけになり、幕府滅亡の一因にもなりました。
時代劇を見ると役人が杉林を守っていて、勝手に木を切ると叩き切られたりしていましたが、それほど木材は貴重になっていました。
江戸城は火災や地震のたびに建て直したが、最後は再建されなくなったのは、城を建てるほどの大木がなくなっていたからでした。
そうした貴重な木材の産出地が吉野川上流で、今も吉野杉として知られています。
下多古川沿いに集落がある
落ちた吊り橋の向こうに廃屋がある
この橋の向こうの家は、住んでいる気配がした
中心部に天手力男神社がある
境内はきれいに清掃されていた
道路を挟んだ反対側に、変な広場がありました
手前の広場と集会場が、下多古小学校跡でした
林業で栄えたが今は消滅を待つのみ
多古集落も林業全盛期には栄えたでしょうが、明治以降は石炭や石油の時代になり、昭和期以降は輸入木材によって杉価格が暴落しました。
資金源を断たれた山間の集落は壊滅し、今は高齢者が残っているだけで、消滅の時を静かに待っている。
下多古集落の中心部には立派な神社や寺があり、もっと山中にも多くの林業従事者が暮らしていたでしょう。
江戸時代以前の山中には木挽き(こびき)と言われる木材伐採職人が生活し、木を切って加工し柱にしてから平野部の都市に運んでいました。
切ったままの樹は凸凹して重くて運びにくいので、製材して柱状にしてから、山から降ろして輸送したのでした。
法隆寺や東大寺の柱なども、山上で木挽きをしてから現地に運んでいた筈でした。
現代の下多古集落では建物は昭和50年代より新しいものは見かけず、40年以上人口減が続いているのが分かります。
下多古小学校もあったが1964年(昭和39年)に廃校になっています。
小学校跡から川の向こうを見た風景
昔の小学校端に当たり、前の建物は学校前の商店だったのでしょう
家はほとんど空き家です
橋の向こうはやっぱり空き家のようです
中心部を過ぎると急に荒廃し始めました
山林の間にも廃屋
橋向こうは草に覆われている
これも廃屋
川の向こうに工場のような建物があります
孵化室と書いてあります
この先は完全な廃村状態でした
ここも10年後には人口ゼロでしょうね