十津川護国神社と満州十津川村
十津川開拓団とは
十津川という名前の自治体は3つあり、一つは北海道の十津川町です。
ここは明治22年の十津川村大水害の後で、被災者が北海道に移住して作った町でした。
もう一つは戦前満州国に存在した満州十津川村で、現在は歴史から葬られています。
十津川村から満州には昭和10年から昭和20年まで開拓団が派遣されたが、今では合計人数すら分からない。
数十人や100人、200人と移住しているので、おそらく合計では1000人以上が満州に移住したとみられます。
敗戦が決定的になった昭和20年になっても食糧増産のため派遣が求められ、100人以上が渡っています。
開拓と言っても東京都より広い面積を、数十人ずつの集落に分かれて機械もなく手作業だけで開墾します。
ほぼ自給自足で内地からの補給などはなく、生産実績は皆無といっていい状況でした。
昭和20年8月に終戦になったが、軍はさっさと引き上げてしまい満州十津川村の住民は取り残されました。
ソ連軍や中国人に襲撃されて村は壊滅し、数百名が現地でなくなって生き延びた人たちも身ぐるみはがされて暴行されました。
開拓団の人たちは帰国後も侵略者のレッテルを貼られて非難され、無念の生涯を過ごすことになります。
こうした十津川開拓団の慰霊碑が十津川村のあちこちにあり、護国神社と武蔵小学校裏で確認できました。
護国神社は国道168号線の役場近くにあり、鳥居はとても目立つ
上がって行くと慰霊碑がある
1才や2歳児は現地で生まれた子供
全員が8月15日の終戦後にソ連や中国人に襲撃されなくなった
公式な記録すらない
これは武蔵小学校裏の慰霊碑
やはり終戦後になくなった人がかなり居る
歴史からも消されて残るのは石だけ
こうした慰霊碑は景色が良い場所にあることが多い
せめてもの配慮でしょうか