秋の二上山ふもとの神社や農村めぐり
歴史の舞台、二上山と葛城山
奈良県葛城市の二上山から葛城山にかけては古代ヤマト国家成立前後の歴史に深くかかわっている。
神武天皇が攻め込んだ橿原市が奈良盆地の東端になり、葛城市は反対の西端に当たっている。
箸墓古墳などの巨大前方後円墳はすべて東側にあり、西側には一つも存在していない。
ヤマト国家は東側にあり、西側のこの地域は対立していたが、ヤマトには所属していなかったようです。
歴史的には西側の二上山のほうが古く、旧石器時代から縄文・弥生時代、古墳時代に至るまで人の居住が続いていた。
縄文時代以前の最先端技術は石器で、二上山で採れるサヌカイト(讃岐石)は最も良質な石として日本中で取引されていた。
弥生時代になっても金属は装飾具として使われなかったので、石器の重要性は変わりませんでした。
だが弥生時代から古墳時代にかけて奈良盆地の東側の宇陀市では水銀の原料である辰砂(しんしゃ)が採れるようになった。
その産出量は日本最大でアジアでも有数で、秦の始皇帝が不老不死の薬として求めたのも水銀でした。
この日の二上山は霞がかかっていた
山まで道が無いのは地図で知っているが、一応山方向の道に入る
秘密基地っぽい小屋があった
二上山を見ながら迂回します
農村に入ります
二上山に曲がる道には一応入ってみます
この道も行き止まり、これはビニールハウスの跡ですね
水銀は猛毒だが強力な殺菌作用があり、当時は万能薬として使われるほか、塗料や化粧品など多くの目的で使われていた。
水銀は今日の石油製品のような価値があり、おそらく神武天皇はこれを独占するために奈良盆地に攻めてきた。
奈良盆地は二上山の石器と宇陀の水銀が採れ、周囲は難攻不落の山岳地帯に守られた要衝でした。
奈良盆地では水田によって豊富な食料が得られ、この地でヤマト国家が繁栄し日本制服を成し遂げました。
二上山や葛城山は聖徳太子や神功皇后、日本武尊らがこの地を通って大阪へ出た交通の要衝でした。
今回はその二上山と葛城山のふもとの農村を巡り、最後は笛吹神社まで行きました。
葛木倭文座天羽雷命神社という長い名前の神社
奈良県の古い神社はこのタイプの鳥居?が多い
近くの四天王堂、昔寺があった場所に再建したようでした
大池から見た二上山
二上山ふもとの砂防ダム、公園を作りかけて辞めたような場所
国道166号線沿いにある春日若宮神社
日露戦勝記念碑がありました
急だったので一番上には上がりませんでした
神社から見た竹内街道、聖徳太子もここを通った
つづく