廃村中津川 廃寺の地蔵と廃神社

村は昭和44年に崩壊
奈良県五條市の旧大塔村から野瀬川村にかけては1000m以上の山が連なり、年間降雨量も多い。
大阪や奈良の平野部で曇っていると、大塔村から十津川方面はだいたい雨が降っている。
山の天気は変わりやすいので、昼頃は晴れていても午後3時ころ雨が降ることもある。
こんな地域なので日陰にある古い神社や寺は苔だらけで、1年中乾くことがなく育つ。
苔マニアが有名な寺の苔を盗むといった事件が都会では起きるが、ここでは苔は珍しくもない。
そんな場所の一角にかつて存在したのが野迫川村の中津川で、昭和中期までは数十人が暮らしていました。
昭和44年のある日、集落のリーダー的な家の家主が家族をつれて離村し、瞬間的な村の崩壊が起きた。
その年の初めには11世帯53人が暮らしていたが、その年の暮れには人口ゼロになった。
中津川には中津川小学校が存在したが、全員離村によって休校になり、そのまま廃校になった。
中津川には念仏寺があったが廃寺に、神社もあったが廃神社になり隣の小さな祠だけが現存している。
消滅から50年が経ったが離村した人々による自治会が存在し、寺や神社跡で祭祀をした痕跡がみられる。
また途中の道路は清掃されていて、定期的に人が来て集落の手入れをしているようです。
道路左手の山側には大名屋敷のように立派な家がある

建物の中まで木が生えている

最近の物らしいハシゴが見える

「大名屋敷」は立派な石垣の上にある

大名屋敷の谷側の家は枯れ葉に埋もれている

上と下には身分や貧富の差があったのをうかがわせる

もっと下にはもっと小さな家が見えます

小作人のような地位の低い人が住んでいたのでしょうか

過酷で貧しかった村の生活
関西近畿圏は温暖な気候だが、この辺は冬季に雪がつもり昔は一切の交通が遮断されて下界と途絶した。
仕事としては木こりなど林業関係の日雇いだけだが、年間就業日数が200日程度なので、収入は奈良県平均の3分の1だったという。
日本の高度成長が続く中で村人はそうした貧しさに耐えかねて、ついに集団離村に至った。
その後このパターンは林業衰退と農業衰退によって、日本中の山間集落で発生する事になる。
日本の農林業では林業がまっさきに切り捨てられたのに対し、コメは最後まで守られた。
なので過疎の農村でも水田がある集落は豊かで、水田の無い集落は極貧集落に二分化しました。
平地の水田が豊かな地域では、過疎とか貧困といっても水田がない地域より遥かに豊かです。
政府もそれなりの対策をし、中津川でも五條市までつながる道路や輸送用ケーブルなどを作り小学校も存在した。
電柱があるので電気が通っていたし、災害防止のために砂防ダムなどかなりの予算を投じた跡がみられる。
住民が50人ほどしかいない集落に、1人当たり現在の価値で数千万円を投じたが、平野部との格差は拡大するばかりだった。
現在の中津川を見ても当時の生活の過酷さは充分に想像する事ができる。
村が一瞬で崩壊したきっかけは皮肉にも莫大な予算を投じた道路の開通で、交通の便が良くなったことで崩壊を速めた。
道路で行き来することで自分の村の貧しさを客観的に感じられるようになり、自動車が通れたのでトラックで引っ越しできるようになった。
例えば村の寺には墓石が一基もないが、すべて離村時に移動させたようです。
舗装路は終わったが細い未舗装路が続いている

突然景色が変わって黄泉の国ってのを連想します

この紫の花が咲いていて、霊界っぽい

霊界を抜けると寺のような建物が見えます

ホラー映画ではここで誰かが死にそうな場所です

とても不気味です

もう一組あります

心理的ダメージを受けそうなので立ち去ります

さて村の入り口まで戻りました

これは移住先に移された神社跡です

隣の小さな祠は今も祭られている

なかの狐一家

神社前で祭祀をした跡があります

つづく