信貴山朝護孫子寺で護摩焚きに遭遇
聖徳太子が寅の刻に必勝祈願したら勝てたという
寺ができたのは太子から600年も後
聖徳太子はかく戦えり
信貴山(しぎさん)は奈良県側にあるが大阪市内なから近く、自然が豊かなので大阪人で賑わっている。
信貴山を名付けたのは聖徳太子で、朝護孫子寺も聖徳太子にゆかりの寺とされている。
西暦587年に蘇我馬子の家来だった厩戸皇子(聖徳太子)に物部守屋の討伐を命じ、途中この地に立ち寄った。
当時の宮廷は次期天皇を巡って物部と蘇我が激しく争い、物部が推す穴穂部皇子が優勢となっていた。
厩戸皇子が進軍の道中立ち寄ったのが信貴山で、寅年・寅の日・寅の刻に戦勝祈願したところ、毘沙門天が現れたという。
現在の東大阪市に物部の拠点、稲城があり強固なうえ兵が強く、蘇我馬子と厩戸皇子の軍は苦戦を強いられた。
厩戸皇子は四天王の像を作り必勝を祈願し、後に四天王寺を建立した。
このように蘇我氏と聖徳太子は仏教色が強いのに対し、物部氏は天照や日本神話の神々を崇拝していた。
仏教という新しい価値観を持ち込んだ蘇我氏に対し、物部氏は旧勢力代表と言ったところです。
聖徳太子の前に現れた毘沙門天、当時寺はなかった
狛犬が空に向かって吠えていてかっこいい
これは檀家の人がなくなると1個寄贈する地蔵のようです
八墓村とかで生首が一個混ざってそうな雰囲気
夕方以降は通りたくないですね
橋の上では
バンジージャンプをしています
参道から朝護孫子寺に入ります
一番大きい虎がいて首が上下に動いています
小さい虎は子供の遊具でしょうか
仏教の蘇我氏vs神道の物部氏
旧勢力のほうが権威があり家柄も良いので、これを倒さない限り、蘇我氏と聖徳太子は一生日陰の身です。
結局蘇我氏が勝利して物部は滅ぼされ、日本は仏教国家へと大転換を図りました。
もし負けていたら日本は神道中心のままで仏教は排除され、文字や法律、貨幣などの導入が大きく遅れたでしょう。
中国の近代建築や製鉄などの技術も、仏教とともに導入されたので、仏教化しなければこれらも導入できなかったでしょう。
このように物部と蘇我氏が戦った丁未の乱は、その後の日本の千年間を決定する戦いでした。
戦いで手柄を上げた厩戸皇子は推古天皇の皇太子として活躍し、蘇我馬子に忠実な子分でもあった。
当時実質的な権力を握っていたのは蘇我氏で、推古天皇を天皇にしたのも蘇我馬子だった。
ちなみに蘇我一族は孫の蘇我入鹿の時代に、推古天皇の孫筋にあたる天智天皇によって滅ぼされている。
理由は蘇我氏の専横によって天皇家そのものの存在が危うくなったからでした。
信貴山朝護孫子寺は平安時代後期に建立され、蘇我氏や聖徳太子と直接の関係は無い。
むしろ聖徳太子が平安時代以降に神格化されるに従って、太子との関連性を深めていったようです。
参道から見える赤い塔が綺麗です
途中の休憩所にあったカメヤマローソクのベンチ
建物からただならぬ煙が出始めました
中に入ってみます
ここで護摩を焚いていました
煙はどんどん大きくなっていきます
千年間毎日やっていると書かれていました
一人ずつ祈祷を受けて反対側に上がります
おわり