大阪古地図から1600年前の光景を想像してみる
右下に住吉大社、中央上に四天王寺が描かれている
900年前の大阪古地図に書かれているのは四天王寺と住吉大社だけ
大坂は歴史が古い町ですが現存している施設は新しいものが多く、大阪城も400年程度しか経っていません。
もっとも古い地図は 承徳二年(1098)の難波津図で、まだ大阪市は海で、島や中洲が点々としていました。
キタやミナミ、大阪城も島であり、淀川と大和川から流れてくる土砂で埋まりつつありました。
難波津図で特徴的なのは「新羅洲」「百済洲」という半島由来の大きな島があることで、名前の通り新羅や百済の人が住んでいました。
船場、難波、中之島、今里、深江など現在も残る地名が多く、名前としては当時のイメージをつかめる。
だが1100年に存在した施設で現存しているのは四天王寺、住吉大社の2つだけで、他は移転したり消失しています。
四天王寺、立て札には「聖徳太子千四百年」と書かれています
四天王寺は何度も焼失したので当時のものは残っていない
大阪城の隣りの難波宮には当時生玉神社があったが、豊臣後に移転して現在の生國魂神社になった。
難波津図には仁徳天皇の皇居も書かれているが、今は場所すら分からなくなっている。
現存する2つのうち四天王寺は聖徳太子創建なので西暦593年頃、住吉大社は神功皇后創建なので西暦400年頃と推測できる。
日本書紀によると神功皇后が三韓征伐に出発した所、住吉大神が突風を吹かせて船団を後押しし、皇后は圧勝して三韓を服従させた。
帰国の途中で船が進まなくなり、住吉三神を「大津渟中倉之長峡」に祭るよう神託を受け、現在の場所に創建した。
現在の住吉大社は埋立地の先端から8キロも内側ですが、当時は海岸にあって大きな灯篭の松明が灯台になっていました。
実際には灯台としての必要性から創設され、同時に海の守り神だったと推測されます。
住吉大社創建は西暦400年頃でしたが、さらに南に8キロほど下がると通称仁徳天皇陵があります。
仁徳天皇は神功皇后より2代後の孫にあたり、当時半島南部を支配下に置いていました。
西暦400年台はまだ古墳時代ですが、前方後円墳は海だった大阪市には存在せず、今は田舎になっている藤井寺市の周辺に集中しています。
すると神功皇后や仁徳天皇の時代には藤井寺市周辺が栄えていて、開拓中の大阪市はおそらく工事現場のようだったでしょう。
現代の住吉大社、正月3日なので大変な事になっています
住吉大社の反橋ですが、大勢の人が歩いています
正面はこうなっています
神功皇后もこうしたんでしょうか
屋台もたくさん出ていました