崇峻天皇陵から明日香へ
崇峻天皇陵はまるで追放されたかのように、一年中日の当たらない川沿いにある
蘇我に非ずは人に非ず
奈良県桜井市の崇峻天皇(すしゅんてんのう)陵には以前行きましたが、冬で霜が降りるほど寒く、数枚写真を撮って退散していました。
冬で山間地なので陽の光も当たらず、とにかく寒そうで寂しげな場所という印象でした。
もう少しちゃんとした写真を撮りたかったのと、周辺の農村とかを歩いてみたかった。
2018年の秋は台風と長雨がつづき、この日も台風が去って一日だけ曇り予報の日に出かけました。
崇峻天皇陵のすぐ横には寺川という川が流れていて、上流の雨で増水していました。
桜井市倉橋は平地と山間の境にある農村で、あまり開発されず当時の地形や風景が残されています。
大阪は晴れていたが
どんより曇っていた
崇峻天皇は西暦500年代の第32代天皇、第29代欽明天皇の第12皇子で、敏達天皇、用明天皇、推古天皇の異母弟にあたる。
家柄は充分だが12番目の男子なので本来なら天皇に成れるはずがなく、当時天皇家を支配した蘇我氏が推薦して天皇になった。
平家全盛時代には「平家に非ずは人に非ず」と驕っていたが、この時代はさしずめ「蘇我氏に非ずは人に非ず」という勢いだった。
後に蘇我氏は中大兄皇子(天智天皇)が起こした乙巳の変で追討され、日本は人治国家から律令国家に変わっていく。
蘇我氏の操り人形として天皇になった崇峻天皇は、蘇我馬子の指図によって592年に暗殺されてしまう。
およそ30年後には中大兄皇子が蘇我入鹿の首を跳ねるのだが、こうした積年の恨みが積み重なったのかも知れない。
崇峻天皇陵は他の天皇陵がある奈良県平野部ではなく、山中に近い寂しげな場所にあるのも、蘇我氏の差し金と想像できる。
背後は山で陽が当たらず隣の川にいまにも飲み込まれそうな場所
中を覗くと
隙間が空いていて入れるようになっていました
湿気がすごいのであらゆるものに苔が生えています
ここはほんとうに墓という感じです
隣りの川、生け垣が天皇陵です
今日はかなりの水量です
川を下って周辺を歩いてみます
奥の山影が天皇陵で、押し込まれたように置かれている
田んぼと農村
収穫までもう少しです
1500年前もあまり変わらなかったでしょう
つづく