聖徳太子が歩いた道と風景
墓より周辺の風景
前回は崇峻天皇陵から林道を通って明日香村の棚田に出て、喫茶店でコーヒーを飲みました。
明日香村といえば飛鳥時代にヤマト政権の拠点があった場所で、そうした遺跡も残っています。
天皇陵やいろいろな遺跡を見て思ったのは、遺跡は結局文明の残骸に過ぎないということです。
例えば崇峻天皇陵が生きていた時代に崇峻天皇陵は存在せず、なくなった後で作ったものです。
遺跡や陵墓はすべてそのようなものなので、遺跡を見てもその時代の風景は残っていません。
むしろ遺跡の周辺にどれだけ当時の地形や面影が残されているかの方が、当時を想像するのに役立ちます。
聖徳太子生誕地という説がある場所
聖徳太子を知るのに墓や法隆寺や生誕地を見るのも良いですが、聖徳太子自身が歩いた場所の風景を見たほうが一瞬で理解が深まると思います。
もちろん1500年前の道や建物は何もあいませんが、山や谷や川のような地形は変わらず、農地の風景もおおまかには変わりません。
聖徳太子や小野妹子はこんな風景の中を歩いたのだろうなと想像する事はできます。
こういう道を歩いたのだろうなという景色は残されている
1500年前は仏教伝来の時期で寺を建てまくった
斜面に棚田がつくられ、中には弥生時代の遺跡もある
コメは最も重要な資源だったので、水田を作りまくった
仏教と共に建築技術や文字が伝わった
経典やコメをネズミから守るため猫の飼育も盛んにおこなわれた
3000年前九州に伝わった水耕稲作は、1500年前には奈良県で大規模に行われていた