ミトラのブログ 秘境と異世界

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千年以上前からある大阪遺産 四天王寺、住吉大社、今宮神社

大阪で最古のものは住吉大神、西暦400年前後(伝承では211年)に神功皇后が創建

写真は平成31年正月

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千年以上前の大阪の姿

京都奈良大坂のうち、奈良には古い遺跡や古墳が非常に多く、千年は経っていないと「最近」という感じがします。

一方京都は西暦790年頃に奈良から都が移ってきたが、当時のものはほとんど現存せず、千年以上前のものは少ない。

遷都によって奈良は田舎になり放置されることで保存されたが、京都はその後開発され尽くし、跡形もなくなった。


大坂は千年以上前は市内の大半が海で、その後埋め立てられたので、やはり古いものは少ない。

大坂の古地図と照合すると、千年前に今と同じ場所に存在したのは、市内では四天王寺、住吉大社、今宮牛頭天くらいです。

加えて難波宮跡と仁徳天皇陵がかろうじて往時と同じ場所に存在する。


他は仁徳天皇の宮殿や以前の天皇の御所すら場所が分からなくなっていて、神社や寺のほとんどは場所が変わっている。

大坂市は北の淀川と南の大和川に挟まれた平野ですが、千年前はどちらの河川も現在の場所には存在せず、海だったので川ですらなかった。

難波という地名は文字通り船が難破する海の難所だったからで、無数の島や岩が点在していました。


大阪湾は首都の奈良に最も近い天然の良港だったので、仁徳天皇や天智天皇、聖徳太子の時代に埋め立て整備され道が作られた。

当時は南の堺市から山を越えて奈良に至る竹内街道がメインルートで、法隆寺や平城京までつながっていた。

ちなみに今も竹内街道はあり、地元は観光地にしたがっているが、大半はただのダンプ道なので失望するだけです。

 

仁徳天皇陵(大仙古墳)ができたのは住吉大社よりも後

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仁徳天皇と橋下知事の因縁

仁徳天皇から天智天皇の時代にかけて、大阪市内には百済郡があり、百済川が流れ、百済神社や百済寺も存在した。

百済洲という島も存在し、新羅洲とともに百済や新羅から大勢の移住者が渡来してきた。

百済人や新羅人の多くは大阪湾埋め立てや港湾労働に従事していて、貿易商人や貴族も住んでいました。


内陸で最も渡来者が多かったのが猪飼野という場所で、現在の生野区鶴橋周辺でイノシシを飼っていたのでそう呼ばれた。

百済滅亡後は敗戦によって亡命者が大坂に押し寄せたので、天智天皇は百済の王子に土地を与えた。

こうして大阪の各地に百済人や新羅人の集落が無数にでき、豊臣時代になると大阪城築城と埋め立てのため、また大勢の労働者が半島から日本に移り住んだ。


江戸時代になっても半島からの渡来は続き、当時日本一の大都会だった大阪で労働者として働いたようです。

新羅洲や百済洲だった大阪市の西側や、百済群だった地域、猪飼野だった地域などは現在も渡来風味が強い。

例えばある地域では主婦同士が韓国語で挨拶していたり、言葉に半島風の「なまり」を感じたりする。


大阪湾と平城京を結ぶルートだった太子道(竹内街道)の沿線もそうだし、当時から港だった堺市もそうした集落が多かった。

千年以上前の渡来人集落は平成になっても周囲と同化せず、橋下知事の「同和論争」に発展しました。

事の始まりは仁徳天皇が大阪湾埋め立てや水田開発のために、百済や新羅の労働者を大量に受け入れた事にありました。