醍醐天皇陵と朱雀天皇陵を訪問
藤原一族に支配された天皇
泉涌寺の天皇陵と花園天皇陵の後に、京都市伏見区の醍醐天皇陵を訪問しました。
ここは意外に普通の住宅地の中にあり、バス停の名前が「醍醐天皇陵前」だったのが、面白かったです。
醍醐天皇は宇多天皇の子であり宇多天皇は光孝天皇の子だったが、それぞれ不遇の時代を過ごした。
当時政治を専横していたのは藤原一族で、天皇の任命権や婚姻なども独断的に決めていたとされる。
光孝天皇は即位後に、自分の子供に皇位を継がせないと表明し、26人を皇籍から外した。
醍醐天皇、宇多天皇の親子も源氏を名乗り、粗末な小屋で自分で煮炊きをしていたと言われている。
醍醐天皇の母親も藤原姓で、藤原基経は陽成天皇を廃位させるほどの権力を持っていた。
結局藤原基経は病没し、僅かなタイミングで宇多天皇と醍醐天皇が即位することになった。
醍醐天皇陵前バス停
周囲は普通の住宅地
宇多天皇が即位したのは867年だが、平安時代には天皇の形骸化がかなり進んでいたのが分かる。
貴族による専横を経て武士が権力を握り、源平の時代を経て幕府が政治の中心になった。
天皇が実際の権力を握った時代は、天武天皇(-686年)あたりまでだったでしょう。
朱雀天皇は醍醐天皇の第十一皇子で母親はまた藤原穏子という藤原氏で、この辺が11番目の子でありながら即位できた理由のようです。
わずか8歳で即位したが24歳で譲位、13歳のときに平将門が関東で反乱を起こすなど、すでに武士の時代が始まろうとしていました。
平将門討伐で征東大将軍に任命されたのが、またもや藤原一族の藤原忠文という体たらくでした。
富士山の噴火や地震・洪水などの天変地異が多く、自身も病弱で子が無く、30歳でなくなっている。
長めの参道を通る
醍醐天皇陵
京都の天皇陵は砂をならして線を引いてある
通り過ぎた朱雀天皇陵の道標、電柱の影になっている
両側が住宅で、隙間を通るような参道
右側の民家が迫っている
拝所と陵墓は広いです
やはり線を引いてあります
奈良や大阪では見ないです