浪速区浪速神社 渡来人と現代のタブー
神社内には「ただならぬ気配」が漂う
大阪市は渡来人の移住地だった
大阪市の浪速区あたりは昔「渡辺村」と呼ばれていたらしく、浪速の名前の通り海があり海岸沿いでした。
現在の大阪市の大半は2000年前までは海であり、大和川から流れて堆積した土砂によって、徐々に陸地になった。
1500年前ごろまでは海の中に島が点在する状況で、これが1000年前くらいまで続いた。
当時の島の名前は「百済洲」「新羅洲」など半島の名前で、半島からの移住者が多く住んでいた。
半島から来たのは商人や労働者が多かったが、660年に百済は滅び、663年の白村江の戦いに日本軍は敗れた。
これによってヤマトの同盟国だった百済から亡命者や難民が押し寄せ、九州や大阪、関東に住まわせたとされている。
亡命者には百済の王子なども居たが大半は琉民や難民で、埋立地を農地にするような過酷な土地に住まわせた。
それが九州や大阪、関東の海岸部で、古墳時代を通じて移住が続いたとされている。
半島からの移住は紀元前1000年頃に北九州で始まったが、「渡来人」として縄文人と交わり、弥生人へと変化していった。
周辺に人権看板やポスターが多いのは、そこが部落だったから
神社を囲んでいる塀の部分に注目
浪速区は渡辺村だった
古墳時代の移民はこれと異なり、弥生人と交わることなく、「部落」として日本の中で孤立していった。
古墳時代の渡来人集落と現在の「部落」所在地は高い確率で一致していて、1千年以上前から存在している。
大阪市のキタからミナミは「新羅洲」「百済洲」があった辺りで、「百済郡」「百済川」は現在の生野区コリアタウンにあたっている。
浪速区の渡辺村は明治維新まで渡来人が多く住んでいて、部落だったといわれている。
その名残は橋下知事と大喧嘩になった「人権博物館」などで、部落だったからこそ「人権」関連の組織が優遇されて残った。
そんな人権博物館の近くにあるのが今回の浪速神社で、多くの神社がそうであるように、いつからそこにあったのか誰も知らない。
この神社は解放同盟の聖地なのである
和太鼓と人権博物館
西暦1000年頃の地図ではこの辺は海なので、もっと後にできたのだろうと推測できる。
場所的に渡来人の信仰の対象であり、半島の神も祭っていたのだろうと推測される。
渡辺村は浪速部落あるいは穢多(エタ)村とも呼ばれていて、現在も和太鼓の名産地として知られている。
和太鼓の原料は動物の皮であり、江戸時代には「エタ」以外には動物の加工は許されていなかった。
動物の加工は渡来人が半島から持ち込んだ習慣で、生野区の「猪飼野」は渡来人がイノシシを飼っていたので名づけられた。
こうした経緯からも部落は1000年前頃から存在していたと推測される。
社殿は普通なのだが
他にも多くの神様が祭ってある
無縁供養塔があったり
誰かが勝手に建てたらしいのまである
これは日露戦争の必勝祈願らしい
昔はここで相撲興業が行われたらしい
人権博物館前の和太鼓の像
江戸時代に皮の加工は部落でしか許されていなかった