千日前刑場の跡地を訪問 ミナミの繁華街だった
明治初期と思われる祭場、葬儀を行った後に焼き場で焼いた
千日前刑場とは
江戸時代に徳川幕府は全国に罪人を処刑する刑場を作りましたが、大阪にも一箇所存在し、そこが千日前刑場でした。
1615年に大阪夏の陣で豊臣が滅亡するとすぐ、この地に刑場と寺を作ったというので、豊臣側の武士らを処刑する場所だったのでしょう。
明治3年(1870年)に廃止されるまで255年間も、大阪で唯一の刑場として使用され続けました。
さて江戸時代にはどのくらいのペースで処刑が行われたかですが、千日前刑場の記録は残念ながらありません。
ですが江戸の3大刑場である鈴ヶ森、小塚原、大和田ではそれぞれ年間1000人ほどが処刑されたと推測されています。
これが250年間続いたとして江戸だけで75万人という計算になります。
多すぎる気がしますが、鈴ヶ森刑場だけで江戸時代に10万人から20万人に達したと伝承されています。
次に千日前刑場ですが、大阪で唯一の刑場であり人口40万人の大都市でした(江戸の人口は100万人)
幕府があった江戸は特に厳しかったかも知れないが、千日前刑場でも毎年数百人以上が刑に処せられたと推測できます。
江戸時代の刑罰は現在とはかなり違い、懲役や禁固はなく、放免か極刑かという両極端でした。
中間に島流しとか百叩き、所払いなどもあるが、それほど重罪とは思えなくても極刑が多用された。
ちなみに江戸時代は男尊女卑だったので、「女は責任が軽い」との考えから極刑から罪一等を減じられていました。
したがって刑場で亡くなった人の99.99%以上が男性だったと考えられます。
当時の痕跡を残すものは
そんな千日前刑場は江戸時代には広大な面積に墓地と寺が広がっていたが、明治維新後に再開発が行われました。
道頓堀から南海難波駅の辺りがそうだったのだが、明治期に繁華街が作られて今日に至ります。
明治政府から戦後政府まで、一貫して刑場だった痕跡を消そうとした跡が見られ、当時から残っているのはほとんど在りません。
だが江戸期の古地図を現在と比べると「法善寺」「竹林寺」(2008年移転)「榎地蔵尊」が同じ場所に存在します。
3箇所分かれば三点測量の原理で当時と現在を比較でき、千日前刑場がどこだったのかが分かります。
比較した結果は千日前刑場は現在アムザが建っている場所で、焼き場はなんとNGK(なんばグランド花月)で漫才をやっています。
刑場と焼き場の中間にあった榎地蔵尊は当時の場所に残されていました。(当時の地蔵がある訳ではない)
現在も当時の場所に存在するのは、千日前大通りの反対側にある法善寺と、この地蔵尊だけのようでした。
すこし離れた場所には三津寺と墓地があり、その場所は大きな寺があった跡地なので、刑場時代からの墓が存在するかもしれません。
刑場隣りの墓地だった場所にはビックカメラが建っているが1972年に千日デパート火災があった跡地に建てられている。
この火災で118名がなくなり、祟りだという風評が流れたといわれています。
刑場があったアムザの1階は以前はドトールコーヒーだったのだが、2016年8月21日に閉店していて、刑場跡地でコーヒーを飲む事はできなかった。
動画にまとめました
いきなりですが、ここが刑場跡
去年までドトールコーヒーだったが
古い絵ではこの辺に晒しクビを置かれていた
当時と同じ場所にある榎地蔵尊
龍王が守っているらしい
龍の子分なのかスズメバチが守っていた。退散
焼き場が有った場所がNGK、トップの古写真の辺り
周辺の寺は名前が変わっているが当時から存在した
千日デパート火災は祟りと恐れられた。現在はビックカメラ
商店街は刑場から焼き場へ運ぶ道だった
大通りの反対には法善寺に続く参道がある
法善寺は昔と同じ場所にある