聖徳太子が山越えした竹内街道
1400年前には相当な難所だった
奈良から大阪への官道1号
奈良と大阪は現在は多くの道路でつながっているが、7世紀以前に幹線道路はありませんでした。
大和川が奈良市方面から堺市に流れているので、川沿いを伝って往来していたのではないかと想像します。
二上山の山裾にあたる竹内峠を超える竹内街道が整備されたのは、推古天皇21年(613年)だったと日本書紀に書かれています。
二上山は石器に使う良質な石が摂れる山で、旧石器時代から栄えていました。
竹内街道を利用した特に有名な人物が聖徳太子で「太子の道」とも呼ばれています。
また聖徳太子が隋の煬帝に使者を派遣し「日出処の天子より・・」の文書を届けた小野妹子の墓などが街道沿いに存在します。
フロントブレーキロックという物を買いました
こうすると斜面でもブレーキがかかって両手が自由に使えるグッズ
地図上の道は全部通行止めで、開いている一カ所から入った
当時は外国に出れば本国と連絡が取れないので、小野妹子は現在の外務大臣兼・全権特使のような役割だったと思われます。
竹内街道は現在の難波宮(大阪城となり)から明日香村の飛鳥京まで続いてたが、現在残っているのは市街地を除く26キロです。
しかも当時の道として残っているのは竹内峠周辺の山道だけであり、それすら当時の道とはずれている可能性がある。
さすがに1400年前の自然の山道は何も残っていないのだが、ほぼ近いルートは今も残っている。
国道166号という「ダンプ道」を作るために大半が破壊されたが、断続的に残された山道をバイクで走ってみた。
NTTの電波塔やダムや林業のための道で、そこを聖徳太子が歩いたわけではないが、周囲の地形や森林はには面影が残されていた。
これが聖徳太子が歩いた道(かも知れない)
国道の下をくぐる
すぐに国道と合流する、バリケードの横から出る
国道の反対側にも竹内街道は続いていた
軽トラとバイクしか通れない道、国道を見下ろしながら通過
立派な石碑が並んでいる
工事でなくなった人の供養塔らしい
道は山を登っていく、望むところだ
林業や作業の車しか通らなさそう
NTTの施設用道路のため、また通行禁止
道は次第に細くなる
唐突に広い場所に出て溜め池がある
魚影が見えたが釣り人はいなかった
自然堤防の溜め池が4段くらい続く、いちおう桜の写真を撮る
味のある看板
一番下の堤防には保守作業の軽トラとおじさんが居た
さらに下ると落ち葉が積もる道、誰も通っていないようだ
曲がったガードレールと砂防ダム
国道に出る道はやっぱり通行止めだった
おわり