真田丸跡を探して 三光神社を歩く
真田丸を求めて
大阪城の南にある真田丸に、千日前通り側から行こうとすると、標識や案内の類が一切何も無い。
地図で見ると「真田山公園」という結構広い公園が確認できるが、実はそっちは真田と無関係な、ただの公園です。
本当の真田丸跡は、公園から道路を挟んで結構離れていて、しかも公園からは見えない場所にあります。
発見できた案内図は地下鉄玉造駅のこれ1枚
それだけではなくビルや建物が林立しているので、直前まで近づかないと見えないのだった。
周囲は特徴の無い住宅や学校、同じような寺が並んでいて、より一層方向感覚を麻痺させる。
周囲を2周くらい回って、まともな案内板は1枚しか確認できなかった。
どうもこの神社が臭い
地下鉄玉造駅の出口に一枚と、三光神社の鳥居前に一枚あるが、その場所からは神社が見える。
自転車、自動車、バイクなどで辿り着くには、よほど正確な地図を事前に確認しないと、時間を無駄に使うでしょう。
要するにこの地域は真田丸を観光客に知らせる努力は、何もしていないのでした。
真田丸と書いたノボリが見える
何度か通り過ぎたあげく「やっぱりこの辺りだよな」と神社周辺を捜索すると、真田丸=三光神社だと理解した。
だったらそう書いとけボケが、と思いながら石段を登ると、ネコが出迎えて気持ちがやや和らぐ。
石段の上は広場になっていて、さらに上まで何層かの段差があり、頂上にも広場がある。
階段で真田ネコが出迎えた
上は広場になっている
真田丸は現存しない?
周囲からはまったく見えないのだが、確かにここは小さな山になっているのが分かった。
真田丸を探してウロツキながら思ったのだが、真田丸よりさらに高い丘が周囲にあり、見下ろされてしまう。
周囲は坂が多いが平坦で、1万人以上もの敵軍を防ぐのに適した地形には思えなかった。
実は大河の真田丸を見ていないのだが、帰宅して古地図を見ると、当時大阪城外堀が、真田丸のすぐ内側を通っていた。
真田丸そのものも今は陸続きだが、当時は周囲を全て掘りに囲まれて防御されていました。
堀は大阪城外堀と繋がっていて、大阪城と船で行き来する事ができたようです。
大阪城と大阪湾も堀で繋がっていて、やはり船で出入りできたようです。
こういう当時の地形を計算に入れると、なるほど四方を堀で囲んだ強固な砦だったと納得しました。
真田は徳川から見て敵側だったので、戦後大阪城が徳川の城になってから大事にされなかったのが、今の状態を見ると分かる。
おみくじがたくさん結んである
三光神社と真田は無関係なのだが、商業的な理由でタイアップしているようだ。
真田丸があった場所も宰相山公園という名前になっていて、実のところ真田の遺功はカケラも無い。
三光神社は天照大神・月読尊・素戔嗚尊を祀るため明治に建てられたもので、真田とは無関係とされている。
真田幸村出丸城跡は近くの心眼寺にあるが、大阪の陣の後で真田丸要塞はメチャクチャに破壊されて、実際にどこにあったがは特定出来ないらしい。
寿老神という神様
真田雪村像、人々が覗いているのが真田の抜け穴
心眼寺にも当時の何かが残っている訳ではなく、地形も徳川による破壊で分からなくなっている。
つまり今見た真田丸跡の三光神社の山も、たまたま現在残っていたからそこにしよう的な事で、遺跡になっているらしい。
それだけ徳川が真田を忌み嫌い、痕跡すらなくなるほどに破壊したという点で、真田の天敵ぶりが伝わる。
つわものどもが夢の跡であった。
裏手にある日本陸軍兵士の墓地
山頂から下の公園を見下ろす
三光神社
真田山
大阪府大阪市天王寺区玉造本町14−90