弘文天皇陵と新羅善神堂
琵琶湖と弘文天皇陵
6月中旬に琵琶湖と弘文天皇陵に行ってきました。
滋賀県の天皇陵はひとつだけで、大津市役所を挟んで琵琶湖のほとりにあります。
距離としては大原の天皇陵よりは京都市内に近く、天智天皇陵がある山科区からも近いです。
弘文天皇陵はあまり広くはないが綺麗に歳暮されていて、庭園風になっていて”苔”を育てているようです。
苔の場所に入らないよう注意書きがあり、確かに一面がみごとな苔だらけでした。
弘文天皇陵の隣りには新羅善神堂という神社があり、建物としてはこちらのほうがかなり面白いです。
丘の上から市内を見渡す「あれが琵琶湖だ」
標識のない未舗装路を進んでいく
弘文天皇は648年から672年の人物ですが、百済滅亡660年で白村江の戦いは663年でした。
在位期間は672年1月9日から672年8月21日でわずか7か月ほど、父親の天智天皇から皇位を継承しました。
ところが叔父の天武天皇の裏切りに遭い、滋賀県大津市唐橋町あたりで大敗し、自害して果てた。
史上初めて自害した天皇で、しかも犯人である叔父が天皇に即位し、弘文天皇は「天皇ではなかった」ことにされた。
明治維新後に弘文天皇は天皇の身分を回復し、琵琶湖の陵墓は天皇陵となった。
父親の天智天皇は百済を「兄弟の国」と呼び非常に肩入れいていたが、百済を滅ぼしたのが新羅だった。
弘文天皇陵です
弘文天皇を倒した天武天皇は新羅に接近し、白村江の戦いの後、多くの新羅人が移住してきた。
同時に敗戦国になった百済からも、多くの亡命者が移住したので、特に関西は百済人や新羅人であふれた。
九州から近畿にかけて至るところに渡来人集落ができ、「部落」として現在まで存続している。
その新羅人が居住していた痕跡として、彼らの神が祭られているのが「新羅善神堂」とされている。
豊臣秀吉が焼き払ったため創建当時の物はほとんどなく、創建の経緯も不明だが、他の神社とは明らかに違う。
神社にはある種の規則性があるのだが、新羅善神堂にはそれがなく、鳥居がある以外は外国の宗教施設に見える。
庭園の「苔」が売りらしい
青々とした苔だが座ってはいけない
隣りの雑木林の中に巨大な鳥居がある
なぜか岩の上から巨木が生えている
奥に進むと不思議な建物が存在する
建物や灯篭の配置などが日本風ではない気がする
西遊記や水滸伝に出てきそうな門
小さな城のような造り
林の中を通って戻る