成務天皇陵と考謙天皇陵を訪問(奈良市)
ヤマトタケルの弟
神功皇后と同じ3月末頃に、奈良市の成務天皇陵と考謙天皇陵にも行ってきました。
奈良市山陵町は公園のようになっている場所に3つの前方後円墳がくっついています。
成務天皇陵は墳丘長(島の部分)218メートル、孝謙天皇・称徳天皇は同一人物で墳丘長127mです。
隣の佐紀陵山古墳は墳丘長207mで、第11代垂仁天皇皇后の陵墓に治定されている。
治定というのは文部省がそう決めることで、遺跡として保護され予算もつく制度で、考古学上確定したのとは違う。
3つの前方後円墳ともに本当の被葬者がだれかは確定しておらず、大きさなどから見て天皇と同等の権力者と推定されている。
右側に3つの前方後円墳、奥に進むと神功皇后陵がある
考謙天皇陵は道端にあって分かりやすい
成務天皇は第13代天皇で以前行った景行天皇の息子、というより「ヤマトタケル」(日本武尊)の弟と言った方が分かりやすい。
ヤマトタケルは日本書紀に記された伝説上の人物で、九州や東国を討伐して日本を統一したと書かれている。
成務天皇やヤマトタケルは西暦300年代の人物ですが、不思議なことにこの時代、前方後円墳が日本列島全土に広がります。
ヤマト政権が日本中に影響力を持った時期と、ヤマトタケルが日本を統一したと書かれている時期は一致しています。
次の世代の神功皇后は朝鮮半島に出兵し、三韓征伐を行ったと書かれていて、この時代に半島南部でも前方後円墳が建設されています。
こうして見ると日本書紀や古事記の内容は、正確ではないものの、まるっきり出鱈目ともいえない。
周辺は農地が広がっている
考謙天皇陵
孝謙天皇は第46代・第48代で女性天皇、父は聖武天皇で男児が生まれなかったので女性天皇になった。
孝謙天皇は好き嫌いが激しく、配偶者も子もいなかったので世継ぎ争いで紛争が起き、このとき直系の子孫は断絶してしまった。
現在の「女性天皇懐疑派」が言っていることが、1300年前に起きているのが興味深い。
考謙天皇陵
考謙天皇陵の正面にはマンションが立ち並ぶ
考謙天皇陵を右手に見ながら歩道を奥に進みます
地図ではこの奥が成務天皇陵になっている
なぜか階段がある
地図ではこの道のはず
成務天皇陵に出ました
遠足の幼児にあいさつされまくりながら到着
これが成務天皇陵の拝所
もう一つ先にも池が見える
ニシキゴイや亀が泳いでいる
垂仁天皇皇后陵
成務天皇陵の前を通って帰る
おしまい