戦国時代の鉄砲は射程100mくらい 強力だが無敵ではなかった
戦国鉄砲の威力とは
戦国時代を特徴づけるのは鉄砲の普及で、信長が鉄砲を用いて武田を打ち破った長篠の戦いが知られている。
当時の鉄砲の射程は100mほどで、鎧を貫通できるのは50mほどだったようです。
弓矢より遥かに強力ではあるものの、今聞くとそんなものかなという印象です。
日本式弓矢(長弓)の有効射程は50mで、これより遠いと名人ですら命中しないと書かれている。
動かない大きな的には100m届くが、鎧を貫通できるのは20m以内だったようです。
鎧や盾はヒノキなど厚さ4センチから5センチが多く、短い弓矢なら厚さ3センチで防御できた。
鉄板の鎧や盾では厚さ6mmの鉄板を近距離で射抜いたとも書かれていて、鉄製だと木製の10分の1の厚みで同等の防御になったようです。
鉄砲は火薬の装填や筒の清掃に時間がかかるが、1発あたり平均約20秒で発射したとされるので、複数人なら連続射撃のような事ができた。
装填手がつくと1発10秒以下まで発射時間が短縮されたので、100丁並べると1分間に600発発射できた。
武田勝頼はなぜ惨敗したか
長篠の合戦で信長勢は1,000丁以上用意したので、1分間で6000発も発射して武田の騎馬軍団を撃退した。
1,000丁の銃が毎分6000発も発射するので、200m離れていても多くの命中弾があったでしょう。
騎馬軍団は馬で移動するが、重量が重いと馬の負担が増えるうえに、落馬した衝撃が大きいので分厚い鎧を装着できない。
離れていても火縄銃の弾が当たれば重傷を負ったと考えられます。
では武田勢にまったく勝ち目がなかったかと言えばそうでもなく、当時の火縄銃は重いので「待ち伏せ」しかできませんでした。
火縄銃の重量は3キロから5キロで他の装備品も携行していたので、銃を構えて歩いて撃つことはできませんでした。
織田軍は地面に溝を掘って横一列に並んで待っていたと思われ、そこに武田軍が無防備に飛び込んできました。
上杉謙信と織田軍の手取川の戦いでは、鉄砲は役に立たずコテンパンに負けているので、勝頼が戦巧者ならそこまで負けなかったでしょう。
長篠の合戦のとき武田勝頼は正当な後継者ではなかったため、「武田」を名乗るのを禁じられ、有力な家臣は彼に従っていませんでした。
勝頼の命令を無視して突進した家臣団を助けるため陣形が崩れ、意図せず無謀な全軍突撃になったとも言われています。