ミトラのブログ 秘境と異世界

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天皇陵の政治利用の歴史

明日香村の文武天皇陵

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天皇陵と神道は無関係だった

最近のニュースで安倍首相夫人が育児団体のオーナーと親しくし、見返りに補助金50億円が交付されたとありました。

それは横に置くとして、団体は「夫人を慰める会」を開き、下関の赤間神宮に揃って参拝した。

この「赤間神社」は安徳天皇陵が境内にあり、天皇を祭るための神社でした。


安徳天皇は平氏と源氏が戦った源平合戦で、平氏と行動を供にしたが、当時5歳であり、実際には平氏に連れ去られた。

安徳天皇の母は平氏の平清盛の娘の徳子で、これまた平氏の専横によって、天皇家を乗っ取り、平氏自らが天皇になろうとした。

平氏と激突した源氏の大将は源頼朝で、最前線で指揮したのは弟の源義経だった。


義経は壇ノ浦まで平氏を追い詰め、最後の止めを差したが、その時に平氏は安徳天皇を道連れにし、母子は海中に没した。

その安徳天皇の陵墓が「赤間神社」であり、安倍夫人と育児団体は参拝することで何らかの表現をしたかったのかも知れない。

だがどういう政治姿勢にしろ、830年前の人にすれば迷惑でしかない。


天皇陵を政治利用したのは初めてではなく、昔から頻繁に、かつ盛大に行われていました。

現在天皇家と神道は一体とされ、天皇稜には必ず鳥居と神道式(寺院では仏教式)の拝所が設置されています。

だが最初の天皇陵が築造された西暦100年から200年ごろは、こうしたものは存在しませんでした、

 


仏教、幕府、政府などが利用した

神道という宗教が成立したのは仏教が伝来した西暦500年代以降であり、鳥居ができたのはもっと後でした。

それ以前は先祖崇拝や自然信仰が各地にあり、天皇もそうした土着的な世界観を抱いていたと考えられます。

だが時代が中世になると天皇を頂点として神道・仏教が確立し、武家社会による幕府が成立しました。


すると武家側の都合、あるいは仏教や神道の都合によって、天皇陵と神道・仏教は密接に結び付けられていきます。

江戸時代にはすべての天皇陵が再調査の上で治定(決める事)され、不明な天皇は神格化されて神道と結び付けられた。

このほうが天皇の家来である将軍や武家にとって都合が良く、天皇を祭る神道や仏教にとっても好都合だったからです。


仏教伝来以前の天皇は強引に神道と結び付けられ、明治になると現在のように神道式の拝所などが天皇陵に建設されました。

これも明治政府の都合で、クーデターによって幕府を倒した明治政府は、天皇を利用することで自らを正当化する必要があったのです。

戦後の日本もGHQの命令で勝手に建国したので、やはり天皇を利用することで、政府に正当性を持たせようとしました。


その度に過去の天皇や天皇陵は都合よく解釈されたり、改築されてきました。

第30代の敏達天皇(585年没)までが前方後円墳ですが、この頃までは神道や仏教との係わり合いはあまりなかった。

仏教伝来は552年、神道が登場するのもこの後、日本神話と天皇が結び付けられるのは『古事記』が書かれた712年以降です。


古墳時代の天皇や日本の本当の姿は、現在考えられているのとはまったく違う世界だったでしょう。